法と自由

尊厳死法案に関して、法学者の人々は法案を評価しない理由の一つとして、法によって医療者の行為が制限されることになる、ということを挙げている。しかし、一般論として、法はかならずしも個人の自由を制約せず、個人の自由(あるいは安全)を保障する役割も果たすように思われる。今回の「医師の免責条項」についても、限定的にせよ、終末期医療における治療の差し控えと中止に関する医師の自由(法的に許されること)を増やしているのではないかと思うのだが、どうだろうか。いずれにせよ、法と自由の関係について再考する必要がある。

時代精神

今さらだが、グローバル化少子高齢化など世界も日本も変わって来ている。歴史を見ればわかるように、同じことを繰り返していても上手くいかない時がやってくる。時代を追うのではなく引っ張ること。それができなければ後進に道を譲ること。The times they are a-changin'.

ピーク

ミュージシャンのアルバムを聴いていても、ある時期のものは際立ってよい。自分では気付きにくいが、時代精神と合致して、あるいはそれを牽引する時期があるようだ。人生は平坦ではなく、ピークがある。その時期を上手く見極められるか。あるいは気づかぬままにもう過ぎてしまっただろうか。

相対主義

戦後に相対主義が隆盛になった経緯、またそれが進化心理学等の台頭により弱まって来た経緯についてよく調べること。ファナティックな実定法と実定道徳から逃れるには、何についても合意ができないという相対主義以外にも方法があるはずだ。

アカデミズムとアクティビズム

大学人は中立的でなければならない、という考え方がある。その一方で、規範に関わる学問分野にいる人は、教科書書きに終始するのではない限り、何らかの規範的立場を主張せざるを得ない。しかし、理論的主張をするだけで、それを実践に移さないことは誠実だろうか。ここに倫理学に関わる大学人のジレンマがあるように思われる。

哲学と将棋

シンガーが若き日のパーフィットのことを哲学におけるグランドマスターと思ったという話を読んでこのアナロジーについて考えている。
哲学がゲームのように人々に考えられる懸念、また実際に「この手に対してはこの手とこの手があるよ」というゲーム感覚になっている観が分析哲学になくはないだろう。
しかし、やはり定跡を学ぶことは重要で、また現在どのような問題があり、そこから先に進むにはどのような手が考えられるのかを検討することは重要だ。難局を切り抜ける手を編み出す必要がある。
もう一つは、この考え方をする場合、差し手として考えるか、コメンテーターとして考えるのかという違いがある。後者ならば定跡だけ覚えれば良い。しかし、前者であればその上で新しい一手を考えつかなければならない。