職業とそれに伴う義務

警察官が法に反することをやって捕まると大きなニュースになるのはなぜか。おそらく、警察官は職業柄、法に反しないより強い義務があると想定されているのだろう(「警察官だって人間だ」は通用しない)。他の人も法に反してよいわけではないが、法に反しないことが特に期待される職業ということか。倫理学者が倫理に反することをやって捕まっても、おそらく(他の職業の場合より)ニュースになるだろう。これは正当な期待かどうか。

作品を作ることと批評すること

芸術作品を作るために学びに来たのに、ずっと鑑賞の仕方を教えられて、ついには批評家になる。哲学教育についても同じようなことは言えないだろうか。しかし、よい作品を知り、それを批判する能力を身に付けなければ、本当にオリジナルなものを作れないのも確かだ。重要なのは、哲学の伝統を学ぶさいに、それ自体が目的にならないことだろう。

「お前に言われたくはない」

誰に言われようと、真理は真理のはずである。だが、「1足す1は2」でさえ、嫌いな人に言われると心理的に受け入れがたく感じる。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、というやつである。なるほど、日常的には信用のできる人とそうでない人を色分けしておくことは重要である。しかし、真理を追求するつもりなら、誰がそれを言ったかを不問にして考える態度を養う必要がある。

哲学者と常識

「なぜ警察官になろうと思ったのですか」という問いは(ほぼ)額面通りに受け取ればよいが、「なぜ哲学者になろうと思ったのですか」という問いはむしろ「なぜいつまでも子どもを卒業せず大人になろうとしないのですか」という問いと理解した方がよい。とはいえ哲学者と子どもでは次の点が異なる。子どもとはまだ常識を学んでいない状態であるが、哲学者とは常識を学び損ねた状態である。その意味では上の問いは「いい年になっても哲学をしている人を見るともう殴ってやりたくなるのだ」というカリクレスの批判の婉曲表現である。

では人々は哲学者に何を求めているのか。ありがたい話である。しかし、ありがたい話とは何か。心温まる話、社会批判(しかし聴衆の批判ではない)、「他人に親切にしましょう」といった単純な話を難しく語ることであり、非常識な話のことではない。たとえ哲学者が魂につける薬を持っていたとしても、それはおそらく一般人の望むものではない。

時間がないという感覚

常に付きまとう、時間がないという感覚。追い立てられている感覚。これがずっと続いていくのだろうか。すでになんとなく退職を楽しみにしているが、退職して時間ができるともかぎらない。また、それまで生きている保証もない。なぜ人生は一度きりしかないのに、このような生き方をしているのか。本当に好きなことをしないで、何のために生きているのだろうか。

翻訳をする理由

翻訳をすることは自分の文章力を鍛える最善の手段の一つである。また、翻訳が出ないと注目されないという日本の現状を考えると、研究者が翻訳をすることは義務の一つだと思われる。また、自分の研究分野に関係のある重要な文献の翻訳が誤訳だらけだと日本の研究が遅れてしまうので、正確に訳せる者が訳す義務もあるだろう。

オリジナルな研究をする時間が少なくなるというのは確かだが、そういうことを言う人の一部は、実際にはそれほどオリジナルな研究をしておらず、適当な語学力で海外論文の誤った理解に基づく論文を書いていたりする。古典を学ぶ場合と同じで、正確に全訳をするときぐらいの厳格さでテキストと向き合わないと、緩い思考しかできなくなる。

とはいえ、バランスが大事であり、ショーペンハウアーが読書について述べているように、他人の思考をレコードの溝のように頭に刻むことばかりしていると創造力がなくなってしまうかもしれないので、注意が必要であろう。